親の責任:『刺さる言葉』より
【親の責任:『刺さる言葉』より】
「君の存在の開始に、まず責任を負うべきは『親』だ。というよりも、ある存在の開始に、一方的に責任があることを承認し自覚する人間を、その存在に対して『親』と言うのである。」
何のために生きているのか、生きていることは苦しい、生きることになかなか肯定的になれない、何もなければどれだけ良かっただろうか、そんな風に考えてしまう人がいる。
そんな人にとっては、子供を産み出すということは、同じ苦しみを与えるということになるため、少し躊躇してしまう。
しかし、子供をどうするかと考えたときに、子供の立場から振り返ってみると、自分が今ここにいることに対して、親に対してなんで産み出したんだよという気持ちがあるかというと、それはない。
そして、もし親から産み出してしまってゴメンねと謝られたとしても、謝ってもらう筋合いのものではないし、そこには責任はないと感じる。
その理由は、うまく言えないが、エッセンスは貰っているし、経由してきているが、何かその他のものによって産み出されてきた、全く別の個という感覚があるからだ。
産み出されたこと、生きていることに、そんなに肯定的になれないけど、親を責める感覚もない。
子供もそう思ってくれるのだろうか。
ただ、こんな考えを持った人が親になると、やっぱり子供に対して、産み出してしまった責任というか負い目を感じてしまう。
だから、こんな言葉に深く頷いてしまう。
「君の存在の開始に、まず責任を負うべきは『親』だ。というよりも、ある存在の開始に、一方的に責任があることを承認し自覚する人間を、その存在に対して『親』と言うのである。」
そういう意味では、子供に何もできないけど、自分は子供に「親」にして貰ったのだなと思うのである。
感謝。
「生きる意味はあるものではない。作るものだと思う。自殺できることを承知で、なお生を選ぶとき、初めてそこに意味が生まれるんだ」